
「クンクンクンクン……!」
天界の片隅。イヌエルは地面へ鼻を近づけて慌ただしく床を嗅いでいた。
つい先程、突如として漂ってきた奇妙な臭いが気になり、鋭い嗅覚をもって原因を探ろうとしていた。
その様子を心配そうに眺めていた女神が声をかける。
「災厄ですか?」
「いいや、違うな。あいつらはヘンテコな臭いだけど、これはなんつーか……キテレツな臭いがする」
「えっと、それはつまり……どう違うんです?」
「おれにもよくわからねえ。とりあえず原因を調べるぞ」
イヌエルは再び鼻を地面に近づけた。
一方の女神は優雅な所作で腰を下ろし、ティーポットを手に取った。
「……何してんだ?」
「ティータイムです」
女神はあっけらかんと答えた。
「ぜってー今じゃねえだろ! 女神様も手伝ってくれよ!」
「でもわたし、キテレツな臭いなんてわかりませんよ?」
「そ、れ、で、も、だ! 危機感持ってくれ!」
「もう……わかりましたよ」
女神は唇を尖らせながら渋々立ち上がった。
イヌエルが先導する形で、2人はゆっくりと臭いの元へ向けて歩き始める。
ふと、イヌエルの脳内にとある物語が思い浮かんだ。それは日本から来た転生者に教わった昔話で、不思議な犬に導かれるお爺さんの物語だった。犬のおかげで金銀財宝を得た心優しいお爺さんだったが、強欲な隣人のせいで犬は……
――いや、おれは犬じゃねえ!
イヌエルは余計な思考を追い出し、臭いに集中する。
そうこうしているうちに2人は、天界くじやゴールドフルーツの置かれた台の裏手へたどり着いた。普段はあまり人が立ち入らない場所で、表のきらびやかで騒がしい印象とは対照的に薄暗く静かだった。
そこは半ば倉庫のように使われていて、たくさんの道具や容れ物などが置かれていた。その内にあった、金属片で装飾された大きな木箱へイヌエルの意識は向けられた。
「間違いねえ、臭いはこの中から漂ってる。……にしても、この箱は何なんだ?」
「あぁ、それはわたしの宝箱です」
確かに木箱の形状は、いわゆる剣と魔法のファンタジー世界で見かける宝箱に似ていた。
「で、何が入ってんだ?」
「もちろん、宝物です」
女神は勢いよく宝箱を開くと、躊躇なく手を中へ入れた。そのまま中の物をいくつか取り出して床へ並べる。
ずらりと広げられたのは、『色褪せて被写体不明の写真』、『変色したゴールドフルーツ』、『ホコリまみれの加護片』、『砕けたエーテル結晶』、『用途不明の骨』……
「どれもガラクタじゃねーか!」
「な、何を言うんですか! どれも大切な物です!」
女神は慌てて否定するが、イヌエルには納得できない。
「じゃあ、この写真はなんだ? 色褪せてて何も写ってねーじゃねえか」
「いえいえ、端っこをよ~く見てください。『異世界∞異世界』のロゴがありますよね?」
目を凝らすと、掠れてはいるが確かに見慣れた文字が見えた。
「ずいぶん昔ですが、転生者が記憶点で撮った写真を記念に貰ったんです。あんまり写りが良くなかったから、とかで……」
「じゃあ、コレは?」
イヌエルは前足で色褪せたゴールドフルーツを示した。嫌な臭いこそ漂ってこないものの、明らかによくない色へ変色している。
「これも結構前の物ですね。ゴールドが余ったという転生者から貰ったんです」
「加護片とエーテル結晶も?」
「ええ、転生者からの貰い物です。もう使わないから、と仰ってましたね」
「いらねえモンを押し付けられただけじゃねーか!」
お世辞にも宝物とは呼べない代物たちだったが、それらを眺める女神の顔は妙に幸せそうだった。
そんな女神の様子を見て、イヌエルの胸が少しだけチクリと痛む。自分の仕える存在であり、記憶を司る女神ともあろう者が人間から不用品を押し付けられたのだ。従者として何も思わないわけはなかった。
――ったく、女神様は人間に優しすぎるぜ。
イヌエルは心の中で呟いた。
「つーことは、この骨もろくなもんじゃなさそうだな……」
他の品々と同じく不用な物を押し付けられたのだろう。だが、なぜ人間が天界へ骨を持ち込んだのかという疑問は残る。
「それは転生者からの貰い物ではありませんよ。イヌエルのです」
「……え? おれ?」
「はい、よくかじって遊んでましたよね~」
イヌエルが天界に来て間もない頃のことだ。暇だ暇だと文句をたれる彼に、女神は骨をくれたのだ。それをいたく気に入って、隙あらばかじりついていたことを思い出す。
「ど、どんだけ昔のモンだよ! 汚ねーし、捨てろって!」
「嫌です。言ってるじゃありませんか、宝物だって」
女神の優しい笑みにイヌエルの体が徐々に熱くなり、妙な気恥ずかしさを感じる。
ただの骨を、この女神は宝物だと言うのだ。人間のろくでもない品々を大事にするのも当然のように思えてくる。
普段は少し間の抜けた言動こそ目立つが、やはり女神は女神なのだ。
人間や天使であるイヌエルさえも及ばない大きな慈愛を持つ、彼女の凄みのようなものを、改めてイヌエルは再認識した。
「やっぱりすげーんだな、女神様は……」
無意識に漏れた言葉に慌てる。が、幸いにも女神の耳には届いていないようだった。
そのとき、イヌエルの鼻先に強烈な臭いが漂った。例のキテレツな臭いだ。
イヌエルは宝箱へ飛び込むと、臭いの元と思しき物を咥えて放り出す。
「そいつが臭いの元だ!」
床に転がったそれは、人間の手のひらサイズほどの麻袋だった。
女神はそれをマジマジと見つめ、やがて合点がいったような反応を見せる。
「あ……これは茶葉ですね」
「ちゃ、茶葉ぁ~?」
「はい、転生者に貰ったものです。強烈な刺激臭がするんですが美味だそうです。貰ってから数百年が経っているので、臭いが強くなったのかもしれません……」
イヌエルは床に放り出された麻袋を眺め、どうすべきか考える。捨てるという結末は確定しているが、臭いを漏らさないように処分するのはなかなか難しそうだ。 女神が一歩進み出る。何かしらの答えを得たようで、麻袋をひょいとつまみ上げた。
「とりあえず飲んでみますか」
「なんでそうなるんだよ!?」
「ティータイムがお預けになってますし、それに……これも宝物なので」
女神は満面の笑みを浮かべた。
イヌエルは、「いーや、関係ねえ! さっさと捨てるぞ!」という言葉が喉まで出かけるが、グッと飲み込んだ。
またしても女神の宝物だ。ならば従者の自分は、もう少し歩み寄ってみようという判断だった。
「……仕方ねえ、飲んでみるか。腹壊してもしんねーからな!」
「ふふっ、早速準備をしましょう」
2人はその場を離れ、準備途中だった女神のティーセットのもとへ戻った。
ティーポットへ例の茶葉を入れ、沸騰したお湯を注いで見守る。
「いつかイヌエルにも価値がわかる日がきますよ。尊敬できる転生者とも出会えるはずです」
「どうだろうなあ……、おれのハードルは高いぜ? 災厄を軽くひねっちまうくらい強かったら、考えてやるけどな」
「そんな方も、きっと現れますよ。先のことはどうなるかわかりませんから」
やがてティーポットから濃霧のような煙が立ち上り、強烈な臭いが周囲へ広がっていった。その異質な様子を眺めながら2人は笑った。
女神の言う通り先のことはわからない。どんな転生者がやって来るのか、天界がどうなっていくのかも不明だ。
しかし今のイヌエルに不安はなかった。女神と一緒の日々が続けば何もいらないと思えた。それこそが紛れもない、彼にとっての宝物だったからだ。
2025/10/24 08:00